自分の性格

私は自分の考えや気持ちを、他者に伝えることが苦手である。

大勢とのコミュニケーションも得意ではない。

ただその場の流れや空気に身を任せることが多い。

しかし、面倒くさいもので何も意見をしないくせに、こうすればいいのにとか、

自分の中で勝手にストレスを溜めてしまうことがある。

そして、たまに他者と会話すること自体がストレスになるときもある。

正直、自分の考えや気持ちを伝えることができる人、

コミュニケーション能力が高い人を羨ましく思うし、尊敬する。

私もこの性格を直したいと思い、頑張ってみたこともあるがどうにもならなかった。

 

だから、今更ながらどうしてこのような性格になったかを考えてみた。

 

0~4歳くらいのことは覚えてない。

ある時、その当時のことを母が私に教えてくれた。

昔の母は熱心に教会の布教活動に勤しんでいた。

そして、布教活動が忙しくなると、

まだ物心がついていない幼い私をしょっちゅう色々な家庭に預けていたようだ。

預け先の家庭で「おとなしくて、良い子で評判が良い。」と、

母が嬉しそうに言っていたことを覚えている。

4, 5歳くらいの私はおとなしくしてると母が喜ぶものだと思っていた。

 

この色々な家庭に預けられることは、物心ついた後も

小学校の中学年くらいまで、結構な頻度であった。

預けられた最初の内は、年が近い子とお泊り気分で楽しかったが、

段々と寂しくなってくる。そして、わがままを言ったりぐずったりすることもあった。

そうすると預け先の親御さんが嫌な顔、面倒くさそうな顔をする。

しばらくの間、厄介な子の扱いを受け、心がキュッとする。

あの時のことは今でも覚えている。

 

しかし、私がごめんなさいをし、おとなしくしていると、

その後は平和に過ごすことができる。

このようなことが何回か繰り返されると、当時の私は

「自分の気持ちや感情は表に出さない方がいいんだ」というふうに思ってしまった。

そして、これを実践すると、本当に預け先で平和に過ごすことができた。

 

このようなことが今の私の性格に繋がっていったのではないかと思う。

というか、これのせいだと思いたい節もある。

 

こんな幼少期を送ってきたせいなのか、集団で目標に向かい

何かを成し遂げることよりも、一人で黙々と誰にも何も言われずに

作業に取り組んでいることの方が好きだ。

現在は、この性格のせいで会社でも多少の生き辛さを感じている。

一人で作業している時間は良いが、ミーティングや進捗報告すらも苦痛である。

 

勝手ながら、宗教2世の人はこのような問題を抱えてる人が多いのかなと

想像してしまう。

そうすることで、少しは気持ちが楽になっている。

 

ただ、自分もこの性格を改善したらよいのか、

それとも諦めてこのまま生きていくか、悩んでいる。

宗教2世の自分の過去を振り返る

私は某宗教を信仰する両親のもとに生まれた。

いわゆる宗教2世である。

今は社会人として親元を離れて生活している。

幸いにも私の過去を受け入れてくれた人と結婚することができた。

 

宗教2世と聞くと、メディア等で聞く「壮絶な人生を送ってきた人」をイメージするが、そのことを聞くと私は恵まれていた方だったと思う。
両親が宗教活動にすごい精力的だったわけでもなく、宗教教育にすごく厳しかったわけでもなかった。

そして、私が宗教に対して不信感があることを初めて打ち明けた時も頭ごなしに否定はされなかった。
実家をでた今でも交流があるし、私の考えを尊重し受け入れてくれてる?とは思う。

それでも幼少期からの教育などは、やはりトラウマとして残っており、私の性格の形成にも影響があったと思う。

 

なぜ、私が今までの人生を振り返り、自分のことをきちんと知ろうと思ったのか。

最近、自分の性格と環境がミスマッチし起こった出来事で、周りの人たちに迷惑をかけてしまった。

自分の生い立ちや性格について深堀することが、同じことを繰り返さないための予防対策になると思ったからだ。

 

今まで、自分の人生や自分の性格について深く考えたことはなかった。

なぜなら、もう克服した?とはいえ、必ず宗教のことを思い出すからだ。

思い出したくないことは思い出さない。単純な理由だ。

でも、どこかでは考えなくてはいけないとことだと思っていた。

今までよりも、これからの人生の方が長い。

そして、生き辛さを感じずに生きたい。

強くそう思う。

 

宗教2世として育ってきた自分の人生を振り返り、あの時の経験・あの時の環境が自分にどう影響したかを勝手に分析していきたいと思う。

 

学生の時の自分も同じような境遇の人をネットで探して、気持ちを楽にしていた。

私が自分の人生を振り返る記録を残し、それを見た誰かが少しでも楽な気持ちになってくれたら人がいたら嬉しい。